2008年

ーーー5/6ーーー 庭の楓の最後

 自宅の北側の庭に、一本の楓の樹がある。十年ほど前に、何かのイベントで貰った幼木を植えたものである。植えた当時は膝に達しない背丈だったが、今では4メートルくらいになった。

 家のすぐ裏の場所なので、成長するのに大変だったろうと思う。なるべく多く日の光を受けようとしたのだろう。建物の陰から少しでも遠ざかるように、斜めにのけぞるようにして成長した。

 始めのうちはヒョロッとしたまま伸びて行ったが、軒の高さに近くなると樹勢が増した。枝振りも良くなり、少しづつ立派になって行った。成長の過程に苦労が感じられたので、私はこの樹に特別の気持ちを寄せていた。また、毎秋の紅葉の風情も気に入っていた。

 昨年の夏は異常に暑かった。そんな夏のさなかに、この楓は紅葉した。元気の無い、縮れたような紅葉だった。そして暫くすると葉を落した。私は嫌な予感がした。

 樹は暑さに負けそうになると、自発的に葉を落して、水分の発散を防ぐ行動を取る。この楓もそういうことだろうと、家内は言った。そうであれば良いと思ったが、不安は残った。

 冬の間も気になって、小枝を折ってみたりした。ポキッと折れて、芯が乾いていた。太い幹の内部は確かめられないが、少なくとも小枝は生きている感じではなかった。

 春になって、他の樹々が芽を出し、葉を茂らせるようになっても、この楓は沈黙したままだった。近づいて調べると、幹の皮が割れて剥離していた。この樹がすでに生命を終えていることが確認された。

 回りの樹々は、健在である。レンギョウも桜も花を咲かせ、新緑をまとった。何故この楓だけがやられてしまったのだろう。

 家内は、楓が一番道路に近いところにあり、そのため根張りが制限され、さらに舗装のために雨水の浸透が妨げられて、水分を上手く取れなかったのではないかと言った。そうかも知れぬ。しかし、舗装の割れ目から芽を出したアカマツは、元気に育っている。

 敷地内の別の場所にあるナナカマドもやられた。また、隣家の大きなミズキも、どうやら枯れているようだ。やはり昨夏の暑さのせいだろうか。

 それにしても、樹木のように安定した揺るぎない生命体に見えるものも、ちょっとした日常の変化の中で、あっけなく死んでしまうのだ。その事実は、樹木よりは恐らく生存し難い生物である我々人間の上にのしかかる、漠然とした不安を想起させる。

 

ーーー5/13ーーー M邸でバカ騒ぎ

 大町市郊外に住んでいる木工家M氏から電話があった。奥さんが子供を連れて連休開けまで実家へ行っているので、遊びに来ないかという。

 まだお子さんが小さいので、奥さんの迷惑を考えると、普段は気易く訪れるわけにはいかない。行けばどうせ酒を勧められ、飲んでグダグタになるのだから、笑顔で応対してくれる若い奥さんも、ときには心中辛いものがあると思う。

 早めに行かないと、M氏が一人で飲んで出来上がってしまう恐れがあるので、昼前に参上した。もちろん泊り覚悟である。手土産に、ウイスキー一本と冷えたソーダ水をアイスボックスに入れ、途上の菓子店で柏餅、ショッピングセンターで寿司と菓子パンと若干のつまみ類を仕入れて行った。

 前日に突然の来客が三組あり、かなり痛飲したもよう。笑顔で出迎えてくれたM氏だったが、なんとなく元気が無かった。それでも飲み食いするうちに調子が出て来たようであった。

 二人で話をしているだけでも十分に楽しく、訪問の目的は達せられるのだが、私は演奏道具一式を持参していたので、誰かを誘ってみないかと持ちかけた。聴き手が多いほど、演奏する張り合いがあるからだ。我ながら自分勝手な発想である。

 M氏が掛けた誘いの電話に応じて、近所の木工家K氏が、たまたま遊びに来ていた友人たちと共にやってきた。結局M氏、K夫妻、友人夫妻と女性一人、そして私の7人で夜遅くまで過ごした。

 M氏は初対面の来客が含まれているので、ちょっと気を使ったようである。いきなり演奏を始めた私に対して「しばらく休んでいてくれ」と言った。既に酔いが回ってフラついていた私は、ちょうど良いタイミングだと、休息をとることにした。屋外のベンチの上で横になった。

 誰かが毛布を掛けてくれる気配で目が醒めた。一同は屋外のファイヤースペースに場所を移して、飲みながら談笑をしていた。

 程よく酔いが醒めた私は、早速楽器の演奏に取り掛かった。ケーナ、サンポーニャ、ティンホイッスル、バウロン、ボーンズ、スプーンズなどを駆使して、傍若無人、厚顔無恥なパフォーマンスを繰り広げた。

 通常こういう局面では、お付き合いの拍手くらいは貰えても、おおむねこちらの演奏が空虚に響く一方通行の感じとなる。その寂しさにグッと耐えて演奏を続けるのも、一つの修行だと心得ている。

 ところが今回の聴衆はノリがよかった。私が準備した鈴などを足に付けて、曲に合わせて踊り出す人がいた。楽器を手に取って、熱心にチャレンジしている人もいた。酒が入っているとはいえ、こういう盛り上がりは珍しい。思わずこちらも熱が入った。

 かくして、飲み過ぎて指が回らなくなり、音を外してみっともなくなり、演奏をギブアツプするまで、怪しげなドンチャン騒ぎは続いたのでありました。



ーー−5/20−ーー 持ち込まれた椅子の改造

 初めての方から電話があり、作品を見たいと言う。どうぞお越し下さいと言ったら、30分ほどして中年女性が二人やって来た。

 一通り展示品を見てもらった後、一人の方から、実は回転式の低い椅子で、アームが付いているものが欲しいのですがと切り出された。今までアーム無しのものを使ってきたのだが、歳をとって体の動きが悪くなり、アーム付きのものに替えたいとのこと。

 そういうものは作っていませんと答えると、残念そうであった。そして帰り際に、車の中に現在使っている椅子を持ってきているので、見てもらえないかと言う。一枚目の画像のものである。もう十年以上使っているとのことで、一部接続が外れて壊れかけていた。

 これにアームを取り付けたら良いのではと聞くと、そうして貰えれば有り難いと言われた。預かって改造を試みることにした。ひょっとしたら、始めからそのつもりで来たのかも知れない。

 アームを付けること自体は大したことではない。ただ、椅子本体が長年のうちに歪んでいるので、現物に合わせて微妙な調節をして接続しなければならなかった。ついでに壊れかけていたところも、直しておいた。

 完成したものが二枚目の画像である。少し塗装の色が合わないが、この程度のことはご愛嬌。これでユーザーの思い通り、格段に使い易くなったことは、容易に想像できる。

 この椅子の座面はかなり低いのだが、それはテーブル式炬燵で使うのに丁度良いのだと言われた。そして回転式なので、座るときに移動させる必要が無く、具合が良いとのことであった。アームを取り付けても、回転式だから邪魔にはならないとの判断だったようである。

 これにて一件落着であったが、私には少し思うことがあった。

 この椅子、安い作りである。修理のために分解してみたら、いかに安く作られているかが一目瞭然であった。接合部はほとんどダボで繋がれていて、それが抜けかかっていた。全てが木製に見えるが、強度の掛からない部分には、厚紙に木目を印刷したものが使われていた。

 そんな椅子だけれど、ユーザーは十数年に渡って愛用してきたそうである。一部壊れかけていたが、一応使える状態ではあった。この椅子は十分に機能してきたのである。

 数年前のことになるが、展示会に来た知り合いの方から、回転式の椅子をリパートリーに入れたらどうかと言われたことがある。歳をとるとそのような椅子が便利だから、売れるのではないかとのことだった。私は「考えてみます」と答えたが、真面目に検討するつもりは無かった。そんな椅子なら、家具屋に行けばいくらでも有るだろうと思ったからである。家具屋で普通に売っているようなジャンルの品物では、コスト面で勝負にならないのは見えている。

 今回の椅子にしても、私が作ったなら、コスト面で大きな差が出るだろう。その意味では、「売れる品物」になり得るかどうかは難しい。しかし、今回私の頭に引っ掛かったのは、世の人が使って具合の良い品物を、はなから除外して考えていた自分の発想が、それでよかったのかという疑問である。

 我が身を振り返れば、作品作りの傾向として、とかくオーソドックスで格好の良いものに的を絞って来た感がある。機能は優れていても、安っぽい雰囲気のものには手を出さないという、暗黙のポリシーがあったように思う。

 今回この使い込まれた安っぽい椅子を見て、もう少し違う考え方もあるのではないかという気がした。



ーーー5/27ーーー 14年ぶりの来訪

 昔勤めていた会社の山登りの仲間たちが、千葉からやってきた。私を含めて5人の男が、週末を共に過ごした。

 東京に出たときなどに、個別に会うことは何度か有ったが、我が家に迎えるのは実に14年ぶりであった。この間も遊びに来る話はしばしば持ち上がったようだが、いずれも現役の会社員なので忙しく、実現しないまま月日が経ったとのこと。それでも私のことを忘れずに、遠路はるばる会いに来てくれるのだから有り難い。

 これも山登りの仲間ならではの結び付きだと思う。私は12年間会社に勤め、沢山の顔見知りが社内にいたが、いまだにお付き合いをしているのは、趣味の登山を共にした仲間たちがほとんどである。仕事だけの付き合いの人で、私の家まで遊びに来た人は、一人もいない。仕事上の人間関係と比べて、登山を通じて培われた友情は、密度が濃く、持続力もある。

 土曜日の午前11時前に穂高駅で一行をピックアップ。いったん自宅に寄って、不要な荷物を置き、それから大町市の西にある鍬ノ峰という山に向かった。登山口に車を停め、登山開始。登山と言っても、登り1時間半程度の軽いものである。頂上で昼食を食べていたら、予報通り雨が降って来た。雨具を着て、そそくさと下山した。

 帰路、温泉に入り、スーパーに立ち寄って宴会用の酒や食材を調達した。我が家へ戻ったのが5時前。それから夜中まで、延々と酒盛りが続いた。今回の企画は、この宴会がメインで、昼の登山は宴会で美味しく酒を飲むための、添え物のようなものだった。

 それぞれの近況や、昔話に話題は尽きなかったが、不思議なもので、14年間のギャップなど全く感じられなかった。まるで先週まで一緒に生活していたような感覚であった。しかし、子供の話などになると、年月の隔たりに気付かされた。

 翌日も朝から、酒に手が伸びた。迎え酒などといいながら、次第にエスカレートしていった。一人長野市から車で来ていたH氏は、自分だけ酒が許されないことに苛ついたようで、午前中に帰って行った。気の毒だったので、飲み残しの一升瓶を持たせてあげた。残りの連中は、2時過ぎまで飲んだり食べたり喋ったりして楽しんだ。

 このような事になるのを見越して、パートを休んでスタンバイしていた家内が、列車の時刻に合わせて一行を駅まで送り届けた。この次に来るのはまた14年後かな、などと冗談を言いつつ、お別れとなった。14年後だと、私はぼちぼち70歳である。

 遠路はるばる旧友が訪ねて来てくれる。短い時間だが、好きな山登りを一緒に楽しむ。温泉に入ってなごむ。様々な酒を飲みながら、話に花が咲く。家内も話に加わった。娘も挨拶に出た。部外者から見れば、取り立てて言うようなことでは無いかも知れない。それが実に楽しかった。

 翌日一人で後片付けをしながら、時として完全に満ち足りた精神状態に於いて感じる一抹の悲しさ、まるで晩秋の澄んだ青空を見上げた時に感じるような、吸い込まれるような悲しさに襲われた。 





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